昭和三十九年十一月十三日 朝の御理解
御理解第八十九節
此の方の道は傘一本で開くことが出来る。
此の方の道は傘一本で開くことが出来ると、どういうような意味の事を教えておられる のだろうか。
それを、私はどういうような事を言いよるかというと、お商売をするでもです元手はい らぬ傘一本持っていきゃいいと、家もいらん、お得意さんもいらん傘一本ありゃ道が開けると、そういう事にはだからなるわけです。
どれだけの、例えばお商売をさせて頂く。例をとるなら、例えば、福島さんの例なんか 、信心になって丸三年、大変広大なおかげを受けられたけれども、お商売の方は、そのこういわれるわけですネ。
「どうも最近、私共の店はジリ貧」と、こういう。ジリ貧といや、ジリジリいう困った事になっていきよる。 ですからね、それはもう大変結構な事だと思うのです。何故かというと、傘一本で開け る道じゃないですから、店も商品も無くなったっちゃ構わんです。いうなら家も屋敷も無くなったっちゃよかです。 そのね、無くなっている間に、傘一本で開ける道を体得したらいいのです。もう初めか ら、いろはのいの字から神様から頂いたというものによって、私共が、例えばお店ならお店が、また新たに頂ける。そして、繁盛のおかげを頂けていったら素晴らしかろうと思うね。 ところが私の場合、その店ならお店が衰微していきよるとすると、どうぞこの辺で食い 止めねばならぬと。どうぞ、又これを盛り返して、繁盛のおかげにいきますようにという事だけを願う。
いわゆるそのジリ貧ならジリ貧になっていきよる時に、私は傘一本で開ける道といわれ る、その道を体得しなきゃいけんと、又、そういう時でなきゃ体得でけんです。
例えば、これは教会の場合でもそうです。いわゆる傘一本で開けた所の教会でなからな きゃ、本当の御比礼にはなりませんです。
親が、お広前を建ててくれた。例えば、出社なんか大体その基礎だけは、親が作ってく れた。そこにポカントいった位の事じゃ、大した事は出来やしません。ほんとに神様のおかげで、神様のおかげで一から十まで、神様のおかげで道が開けたというのじゃなからなければ。
だから、私が言うのは、店でもしよれば一辺坊さんになってしまわなければならんとい う意味じゃないですよ。極端な例えば表現ですから、いま、私が申した事は。
だから、そういうような傘一本で開けるような道を体得するという事は、必ずその商売 が、そのジリ貧になっていきよる時でなければ頂けんかと、難儀な事が起こって来た時じゃなければ頂けんかという意味じゃないです。
けれども、お互いの日々の生活の中に様々な難儀を感じます。これは恐らく一生が修行 とおしゃるのですから、一生が修行と思われるような様々な修行難儀を感じます。そういう時に、私は、この傘一本で開ける道というような体験をせにゃいけんと。
一事が万事の上に、金銭だけの事じゃありません。人間関係の事だけじゃありません。 体だけの事じゃありません。
教祖の神様がポツンとして御理解。その一つをです、傘一本で開けるのだと、こう教えておられるのはどういうような事かと。教祖の神様がそう教えておられるのだから、傘一本持ってから商売始めよう。傘一本持ってから、なら布教に出ようち、それだけではいけませんネ。
高宮の教会長先生、吉川先生のお話を一辺頂いた事があるんですけど。ハルピンでした か、あちらの布教に出られたのは。奉天で修行されたんですネ。оо先生の所で、そしてハルピンに出られたんです。
修行なさっておられる、相当長い間。それこそ、風呂焚きから子守から仕上げられた。 修行先生です。それこそ何の前触れもなしに、明日から布教と言われたそうです。行先はハルピン。それこそ何の準備もないわけですから。
そして、先生が私が旅費やら持っておらん事を知っておられるやろか。先生のお供をし て、お宅祭りかなんかに行くと、やっぱりお弟子さんにも幾らかの、いうなら御布施的なもの御礼があるです。そういうようなものを長年の間に、その貯めておけば良かったんですけど、私の気持ちというものが、兎に角神様から道を開かせてもらうのですから、その必要はないから、そのたんびにお供えしてしもうたと。だから、その先生が、その自分がお金を持っておるとばし思うてござったじゃろうかと思った。
ところが明日から布教に出らないけん、もうそれを聞いた何人かのご信者さん達が心配 してくれてから、旅費を作ってくれたと。そのあてがないというて布教に出られた時のいわゆる苦心談を、そういう話を先日聞かせて頂いたですけど。
その中に、もう神様が生き生きと働いておるのに驚きます。神様が、その吉川先生の長 年の修行に対して、そういうおかげを下さったのだろうかという事です。
それもありましょうけどもです、さあ、明日から布教ぞ、と時に腹が決まった。そした ら旅費のお繰り合せを頂いた。向こうに出らせて頂いた、貸る家があった。貸る家と、家というものではなかったらしいですけれども、とにかくあった。
お月次祭を仕えるたんびに、五人が十人というように信者が増えていった。初めてお祭 を仕える時も、三宝もなあにもない。同じ事、不安じゃない。
不安じゃないというのは同じ、あちら辺りは一つの門の中に城壁のような、小さな城壁です。その中に何軒かの家があるわけです。日本人ばっかりが大体いるわけです。その中に、天台宗のどこかのお寺さんがやっぱり布教に出て来ておられた。だから、そこに行ってからお三宝を借りてきた。朱と黒に塗った、そのお三宝ですネ。お寺さんですから。そのお三宝を借りてきてから、さあーどうぞお使いなさいといったわけで、そのお三宝を借りてきてから、お月次祭を仕えたというような、その道の開け方なんです。
そして、もう高宮の教会があそこに出る為には大変苦労しておられますよ。引上げて帰 って来て、もうここには出させん、あそこじゃ出ちゃいけんといったような隣近所関係のそれがあったんですね。
それで、ここに行きゃいかんといい、向こうに行きゃ行かんといい向うに行き、結局そ こに行きゃそこの信者さんがごろっと連いて行き、ここに行きゃここの信者さんがごろっと連いて来るというふうにして、現在の高宮教会が出けたといわれております。
これなんか傘一本で開けた道なんです。やはり、それはどういう事かというと結局度胸 ですネ。親先生が出れとおしゃったから、よしもう出てから、向こうなかならもう例えば食べ物がないならカツレ死にしたっちゃ構わんちゅう気持ち。
私はその度胸です。その度胸がいつの間にか出けたかと言うと、そこで長年の修行をし ておられた間に出けたという事なのです。度胸が出けたという事は、クソ度胸ではなくていわば力が出けたと、そういう事なのです。
また、例えばここにお参りしておられる方達の中でも関さんなんか生々しい、最近、体 験を通っておられるのです。けれども、ああゆう時にです力が出けるのは、おおゆう難儀の病気のなかにですたい、ほんとに一家を挙げてどころじゃない、椛目を挙げてといったように難儀を感じたです、もうネ。
一時は、ああゆう中に例えばその病院に入られた。私がおるならば入れなかったという た事がです。ゆうならば病院から連れ戻された。さあーところが、いよいよひどい事になったけれどもです、お縋がりしぬかれた。
そりゃ勿論、周囲の者も大変な祈り添えもあった。本当に関さん達も一生懸命だったば ってん、その周囲の者もそれこそ一生懸命でした。それを取り次がして頂く私も一生懸命だった。
それを最近、関さんがお届けなさる中に、今までそれこそ向こうから反対なさっておら れた親戚の方々、もう関実雄さんというです。実雄さん、もうあんたじゃ叶わん。金光様には叶わんというて、皆が言われるそうです。金光様ちゃ、なんちゅうその有難い力を持ってござる神様じゃろうかと、まあいう意味なのです。面目を施しましたというて、その言っておられます。
昨日、そのお届けを聞かせて頂きましてもそうですネ。大変難儀な事だった。恐らくほ んの暫くじゃったけども、入院させた時じゃったろうと、あばら骨が一本折れとった。だけどこれは職業柄、診察時間がない。だからどうも胸が、悪い影があると言われたごとある。お取次をされてお願いされた。それから、また、幾日か経って行かれたところが、それが分かった。ところが不思議なこっちゃあるです、これがあんたじぶんから繋ってから、こりゃようなっていきよるということじゃった。ひろ子さんとお母さんと出て来てから、おかげ頂いてからと言われるのです。
神様に一心に縋って行けば、ああゆうような事でもおかげ受けられると、ああゆう難儀 でもおかげ受けられると。あん時迷っておった、あん時に医者だ、薬だと言っておった。例えば良くなっておっても、それだけ神様を信じる力というものは与えられなかっただろうという事。とてもとても、あれが全快のおかげ頂いたという位なことじゃない。あん時に、もうそれこそ得難い力を頂いたという事。
あれ以上の事ならいざ知らず、あれ以下の事だったらとしたらです。それこそ、自分の 力であの時、あの時ですらあげなおかげを頂いたんであるからという力。力が出けるから、私は度胸が出けると思う。
力なしに度胸があるというのは、ほんなクソ度胸、信心も出けずにどうかなると、そう いうような甘い考えでは、傘一本で開ける道という道にはなって来ない。
本当に御比礼が立つという教会なんかです、いわゆる持ち物一切が、もう米代に変わっ た、お供え代に変わった。ご本部参拝の費用に変わった。そして、ある物が全部無くなった所から、本当の御比礼が立っておるという。
それはどういう事かというと、そうした事によって力を頂くのです。まだいる時には、 これもあるから、まあだいる時には貯金もあるからというような甘い考えでは道は開けんです。だから、その間にしっかり。
古賀先生の場合でもそうです。昨日も、古賀さんがここでお届けされるんです。何か、 年金のようなものが入るようになっているけどそれが入らない。
そん時、私がですね、神様にそのことをお届けを。どうぞお繰り合せを頂きますように とお届けがあった。
お取次をさせて頂いたら、『久富の富という字を分解して頂いた。』ウ冠に、一つ、口 、田と書いてあるネ。それが富という字です。ウ冠という事は、これは宇宙という事ですネ。宇宙の天地の親神様だ。
その天地の親神様がネ、一口、例えばどこかそこに間違ごうておりゃせんかと。そこに とどこうておらんかというて、そういうお繰り合せを役所の方でして下さるなら、田というのは受けもと、おかげというネ。もう神様が、もうちょっと向こうの方におかげを下さる事になりゃ、もうすぐ出来るのだけれどもと神様を頂く。
それを、私はこの事は申しませんでした。だから、そげなもんどんあてにしちょるから つまらんち。他の者ならいざしらず、ないならない中からなるほど神様がないならない中からこんなにして下さるんだという事。
なら私が、さあー金が無いから金ば借り廻るような事じゃ、力がでけん。米がないなら 、さあ隣近所一升桝持ってから借りさるくような事じゃでけんと。神様が食べさせなさらんなら食べまいと。なるほど借金払い、もう本当に命、これが命とすりゃこげんひどい事はないからというて、どこどこそこから借りてから払うた。また借りた所から催促されなきゃ理屈は同じ事じゃないか。堂々巡りじゃつまらん。
本当に恥ずかしい思いを例えばするならする時に、本気で信心さして頂いて力を頂け。 これが私の流儀なんです。段々、傘一本で開ける道だという事が分かって来たでしょ。
高宮の吉川先生の場合は、そういうような中にそういう度胸をもってハルピンに渡られ た。渡られたら、神様がちゃんとお膳立をしておって下さったという事。驚いてしまう、恐れ入ってしまう。自分でその事をそういっておられます。
お互いがです、現在、例えばお商売ならお商売をさせて頂いておると、その事が例えば ジリ貧になって行きよろうが、繁盛のおかげを頂いて行きよろうが、そういう私は精進をもって御用させてもらわにゃいけん。
これはもう本当に、この頃は毎日赤字、これはいっちょ切り替えな切り替えなこげなこ っちゃいかん、こげなこっちゃいかんと例えばその思い暮し言うておるだけじゃつまらん。こういう時に、いよいよ神様を分からせてもらう時であり、力を頂く時である。そして、こういう時に度胸を据えるんだと。
これは商売だけの事じゃありますまいが、関さんあたりのような、いわば難儀な所を通 らせて頂くような場合に力を頂く。おかげを頂かなきゃならんという事。
それは、あれに頼りこれに縋がるんじゃない。神様一心に縋っておかげを頂いて行くと ころにです、神様が力を与えて下さる。その力が度胸となるわけです。
信心度胸とこういうけど信心度胸というのは、そういう所を通らせて頂いて初めて信心 度胸が出来るのです。
そこで、その傘一本で開ける道であるという、その傘一本の意味が大体半分は分かった わけです。たったそれだけの言葉の中にそげな深い意味合いがあるとですよ。それが、しかも半分です。まだ力を受けにゃいけん。そして、そこに自然と力が出来てくるから、いうなら度胸が出ける。
次には安心のおかげだと私は思う。傘一本もって行きゃ、いつでもさあー曇って来たか らというても慌てる事はいらん。照って来たからというて暑い思いをすることいらん。照って来たらさしゃよし、降って来たらさしゃよか、もっとうもん。そこで、いつも安心のおかげが頂かれておる。神様の御守護をいただいておる。
神様、こういう働きをもっていつも私共をご守護しておって下さるの。だから金光様と 、こう唱えさせて頂く所に、そういういつの場合でも驚かん済むだけのおかげが頂けておる、慌てんで済む所のおかげ頂いておる。それが分かる所にです、それを信じる所にです生れて来るのが安心。
そこで、そんなら安心のおかげというのはどういう事かと言うと、私は神様に安心して 貰える氏子になる事に焦点を置く事だと私は思う。だから神様が安心を与えて下さる。
自分の中に、いわば悪い性根があってから安心のおかげが頂ける。これは、逆たんぶっ てどげな修行をしたっちゃ与えられませんよ。自分の心の中にずるい心がある汚い心がある。それではね安心は与えて下さいませんよ。
私共が神様からですね、あの氏子はというて頂きよる位にです。私共が心の内を改める 事が肝要だとおっしゃるようにです、心の内を改める事に一生懸命にならせて頂く、一生懸命になればなるほど、私共の心の中に与えられるものは安心です。何故って、神様が安心して下さりよるから安心が与えられる訳です。
神様が安心して下さると、これが傘一本で開けるといういわば半分です。ですから私共 がです、安心を神様からして頂く為に、私が真の氏子を目指さなければいけないという事になるでしょ。本気で人間が変わらなければいけないという事が分かるでしょ。そこに神様が必ず安心を与えて下さいます。
それは、神様が安心なさるからです。出来てしまわなければ安心なさらない事はないで す。本気で自分が改めよう、本気で自分を見極めさせて頂こう。そして、それを改めて行こうと、そういう意欲が出来る所に、もう神様が、いわばもうあの氏子はあそこまで考えがついたから、安心してほったらかしておいたっちゃ大丈夫というような、神様の思いが私共の上に照り返ってくる。反映して来るのです。
それと同じに、只今申しますように度胸を頂かなければいけません。それがクソ度胸じ ゃいけないのです。力もなしに、さあー、はあーち言うのはダメです。力を頂いてこそ、初めて度胸が出けるのです。
力を、兎に角力を頂こうという事になればです、もうだから日々が力を頂く為の信心生 活をさせて頂いておるというようなおかげを頂かなやダメです。
さあー、胃が悪いけんち胃散を飲まにゃ、あー頭が痛かろー、さあーノーシンまー、ち ょいと悪かけんちお医者さんに行ってからち。そげな事じゃ絶対力は生れませんね。あれに頼りこれに頼り、頼るそれとても神様の御物だという生き方もあるでしょうけれども、それでは心の中に半分位はあの薬が聞いた位、ぐらいのものでしかないですよ。おかげ頂いたと言いながらも。
だから、神様を信じ抜くという事は、薬とか医者とかそげな事じゃないです。その位の 事じゃないです。そこから、神様がおかげ下さるのです。いうならばです、薬飲めばそれは良うなっても副作用というのがあるです。
この頃、富永さんが言うておられましたですけど、福岡のもう世界で今こげな病気とい うものは、こげな難儀な病気はないといわれる病気を奥さんがしておられます。その為に目が全然見えなくなっておられます。口けがいっぱい、口けのようなものが出けるそうです。やわい所全部に、身体中に、だから全身病と言われておる。
そして目がですね、光りをパット感じられる程度だそうです。けど、それを感じられるようになったら、これを両眼ともえぐり取ってしまわなければいけないというような難儀な病気なんです。しかも、えぐり取ったら五年間しか命が持てないと言われておる。もう施しがない病気なのです。
だから菌がどんどん増えるから、菌を取ってどこかに持って行ったって移らんそうです たい。それでいて、そのどんどんはびこって行くそうです。もうどうにもこうにもしょうがない病気《ら》しいですね。そして痛みもなあにもないそうですたい。だから出来るそのだけ菌がはびこらない為にです、何とかという注射があるそうですけど、その注射をするとどげな病気でんすぐ移るというような、この身体の体質になってしまうそうですたい。
肺病が来ると肺病がすぐ移るそうです。風邪引きが来ると風邪が移るそうです。だから 、その菌をだんだん弱めて行く為にはその注射をしなければならん。その注射をすると、病気の抵抗力というものが全然なくなってしまうそうです。そんな難しい。
この頃から、本当にいうなら男泣きに泣いて涙ながらのお願いに見えられました。長い 間、ご無礼をしておられたお詫びをなさって、そして庭の菊の花どん私が作ったといって持って見えられましてね。私の所には見えませんけど、秋永先生の所にですね。
あの明くる日からです、口の中に出けておったその口けが無くなって行きよるそうです 。ですから神様のおかげというのは、世界のどげな名薬名医というても施しがない事でもです。例えばさっきの古賀さんの話じゃないですけど、神様が一口言うて下さりゃ問題は解決するけど、そこに解決しない所に、古賀さん達の力を受けよという働きを感じなければ嘘だと私は思うですね。
関さん達の場合もそうでしょうが。例えば俊子さんがああして難儀になられた。一家中 の者が一生懸命になられたおかげで良うなった。全快のおかげを頂いた時にはです、【 病気 】
そこからではなくから、いうならば関の家のめぐりのどうにも出けないめぐりが取り払われたという事になるのですから、大変なことなのです。
実をいうたら、そして、どういう事かというとこういう事ですから、一心に縋がればこ げなおかげを受けられるという自信というような力が出けるわけです。信心によっておかげを頂くというのはそういう事なんです。それを頂かなければ馬鹿らしい話でしょうが。この方の道は、傘一本で開かれるんだとおしゃる意味の中に、只今申しましたような様 々な信心がある訳なのです。
何故傘一本で開けるか、なるほど力が出けるからいわば力が出けるという事は、特に度 胸が出けるから、同時に信心とは自分の日々の改まりが第一じゃと、こうおしゃる第一という信心とはこうなんだという所に取り組んで行く所にです、神様が、ん、もうこの氏子は大丈夫というように神様が安心して下さる。
その安心が私共の上にも照り返って来る。そこに私共が安心のおかげを頂く事が出来る 。信心の力を頂いて、そこに信心の度胸が出来る。どのような場合でも動じんで済む、慌てんで済む、おかげ。ね。そこでその、いわゆる傘一本で開かれる意味がわかったでしょう。
ね、ですから、例えばどういう原罪や難儀なことにだんだんだんだんなって行きよっても、一つも驚く事はいらんという事です。これなんか問題じゃない。だから問題は、このだんだん難儀になって行きよるうちにです、神様の間違いなさ、神様のそうした力というものをです、いよいよ鍛え養わせて頂く絶好の機会だという事がわかるですね。
ですから、そこに力を頂くと同時に、神様に安心して頂けれる氏子に、私共が目指〔さ〕してもらうという事。そこに安心のおかげが頂かれる。そこに、傘一本に、で、開かれる道という事が分かるですね。おかげを頂きありがとうございました。